紫と白:子規と漱石にとっての「源氏物語」 21 Ⅰ 正岡子規は一八八五年八月十日付の内藤鳴雪宛ての手紙で、自分が源氏物語の須磨の巻を読み直していることを伝えている。なぜ特にこの巻を読みたいと感じたのか ⑴ というと、その夏、自分が須磨にいたからなのだという。子規が須磨にいたのはもちろん、源氏のような色恋沙汰の果ての「須磨の浦」ではなくて、従軍記者として赴いた日清戦争からの帰国の船上で大喀血して重体となり、神戸の病院を退院してから、須磨保養院で入院療養した ⑵ からだった。それでも遁避した源氏の孤独には強く自らを重ねるところがあったのだろう。須磨から子規が東京の友人たちや親戚に送った多くの長々しい手紙を読むにつけ、須磨の巻で源氏が京都に置いてきた様々な女性たちに送っていた文のことが思い起こされる。八月七日付の手紙では子規は汽船で明石まで行ってみようかとさえ記している。病人でありながらも、直近の暴風が収まれ ⑶ ば大丈夫だろう、と。源氏との共鳴具合は胸を打つ。し かし一つの大きな相違を見逃してはならない。遁逃した 源氏の手紙は彼の恋した女性たちに向けてのものだった が、須磨で書いた子規の 通の手紙はことごとく男性の 友人や親戚に宛ててのものだった。 九月七日、子規は『源氏物語』賞賛の随筆を発表した。取り上げたのは特に須磨と明石の巻だった。これらの巻をまさに須磨で読みながら、彼は紫式部の描いた世界に自分も転移したような気になる:「我も其の人の心地し キース・ヴィンセント J. Keith VINCENT 北丸雄二訳 て獨り微笑まることもおおかり」。この二巻はそして「名 文佳句のみをもてうづめられたる」と書き、紫式部は、 これを以て一級の写実派の作家である条件たる並外れた描写力を発揮していると言うのである。源氏とその連れを恐怖させる凄まじい嵐を描写する彼女の一節を引きながら、子規は「この景、この情、実を写して心細かに趣あることの不思議なる迄にも妙なりや」と記す。この紫式部の傑作を前に彼が褒めるに褒め過ぎることはない。「神わざ」「いかなる鬼神の作にかあらん」と記し、平安時代の他の物語のみならず現代日本のすべての小説をは るかに凌駕すると書くのだ。 「あやしきそらごとのついでたる物語あるいは鑄形にはめたるごときおさなき小説の中に如何にしてか源氏物語のひとりうち上がりて頭をあらはしけん。況して写実派など稱へ出だせる此頃の小説も写実の上にていはば源氏に劣れる筋の多きはいぶかしきことなりかし」 事実、子規はすっかり紫式部に恋しているふうである:「藤式部とは、我が若き時よりの恋人なり」。 よく知られるように漱石は子規と違って『源氏』に関 してあまりいいことは言わなかった。一九〇六年の随筆 の中で漱石は紫式部の「徒にだらだらした『源氏物語』」 のような「柔らかい」昔の和文体よりも「漢文のやう な強い力のある、即ち雄雄勁なもの」の方がずっと好き ⑷ だと書いている。さらに自分たちが『源氏物語』を生み 出した文化に属していることを誇りに思う日本人たち ⑸ の「自惚れ」にも、漱石独特の懐疑を示している。漱石 にとって、日本文学が発展するには日本以外のところか ら思想やインスピレーションが持ち込まれることが必要 だった。すでに在るもので満ち足りていれば、それは停 滞にしか結び付かないと思われたのだ。 とは言え、子規のようには紫式部を賞賛しなかったも のの、最近の研究で漱石が自分の作品の中にこの偉大な 先駆者と語り合っているような場面がいくつか指摘され ⑹ ている。このエッセーで私はその最近の研究を引きなが ら『源氏』の須磨の巻と漱石の一九一〇年の小説『門』 の第 章との間に、いくつかの驚くほどの類似点がある こと、そしてより広い意味において漱石と紫式部との間 につながりがあることを考えていきたい。漱石と紫式部 との関係は、漱石のもっぱら男同士のホモソシアルな世 界観から、次第に、水村美苗の言うところの「男と女の 世界」へと興味が増加していくその移行過程の中で理解 することができる。漱石の職業上のこの軌跡はまた、正 岡子規との彼の関わり方とも大きく関係している。 だがここではまず子規に戻ろう。紫式部に関する随筆を子規は次のような俳句で結んでいる。これは須磨の巻そのものの真髄と、読者としてそれを味わう最上の方法の二つながらを美しく捉えた句だ: ⑺ 読みさして月が出るなり須磨の巻 須磨はもちろん月の名所である。しかしこの俳句にお ける月の突然の現出は単なる旧来の連想以上のものを示している。俳人は読書に没頭するあまりに時間の感覚をなくしている。そしてやっと本から目を上げると、不意に月がそこに上っていたのだ。宮坂静生が言うように、「読みさして」という句は「一情景、一情景ごとに佇み味わう心。一息読み逐すことの惜しさをいったものであ ⑻ ろう」。須磨の巻は『源氏』全巻を通して最も叙情的で 14 かつ感動的な巻の一つだ。そして、この句が示すようなやり方で読むのが最高である。流れるような紫式部の文体にしばし耽溺し、和歌から和歌へと佇みながら漕いでゆくのだ。 ちなみに、私のこの句の英語訳は以下のようなものである: Dipping into Genji And the moon comes out The Suma Chapter 「Dipping into Genji(源氏物語をちゃぷちゃぷやっていると=拾い読んでいると)」としたのは、読書のこの楽しさを dip into という動詞句で表したかったからであり、同時に英語ではこの場合、文法的に「何を」という目的語が必要となるので「 Genji」と置いた。結果、この英語訳は紫式部のテキストがまるで大きな海のような印象を与え、そこに読者がバケツとかあるいは櫂で水面をちゃぷちゃぷやっているイメージになる。そこで気がついたのだが、須磨の巻の中にも「櫂が水を掻く」イメージがあった。光源氏が廊に踏み出て従者たちに見上げられながら、海の向こうを仰ぎ見る場面。櫂は実物としてはそこには登場していない。「初雁」の群れの鳴き声の詩的連想として示唆されるだけだ。雁は源氏とその従者たちの頭上を飛んでゆく。京の都からその年の渡りを始めているのだ。その鳴き声が「楫の軋む音」に似ていると記されるわけである。引き続く従者たちとの和歌のやりとりで、雁の鳴き声と櫂の軋み音は故郷に強く焦がれる男たちの思いの象徴となる。次がその和歌のやり取りの前の部分である: 前栽の花、色々咲き乱れ、おもしろき夕暮れに、海見やらるる廊に出でたまひて、たたずみたまふさまの、ゆゆしうきよらなること、所からは、ましてこの世のものと見えたまはず。白き綾のなよよかなる、紫苑色などたてもつりて、こまやかなる御直衣、帯しどけなくうち乱れたまへる御様にて(中略)心細げなるに、雁の連ねて鳴く声、楫の音にまがへるをうち眺めたまひて、涙こぼるるをかき払ひたまえる御手つき、黒き御数珠に映えたまへる故郷の女恋しき人びと、心みな慰みにけり。 最後の行の「人びと」は言うまでもなく全員が男だ。光源氏は須磨への隠遁に男の従者たちのみを連れてきた。このことが須磨の巻を『源氏』で最も「ホモソシアル」な巻にしている。しかしこれは単に女たちの不在によってもたらされているのではない。『源氏』の英訳者であるローヤル・タイラー Royall Tyler が指摘するように、このくだりの光源氏の「ゆゆしうきよらなる」美しさは一種のエロティックな代用物として、故郷に女の恋人たちを残してきた男の従者たち(人びと)の「慰み」として作用しているのである。この「慰み」はエロティックなものでありながら、光源氏の美しさはまた、従者たちが、自分たちは遁避する源氏に付いてきて正しかったのだと安心させるように働いてもいるのだ。タイラーが説明するように、「源氏の持つ真正の価値の徴しるしたる彼の完璧な美しさの中に、それぞれはそれぞれの際限ない将来的利益を見ている。若き男たちは光源氏が彼自身で何者であるかのためだけに彼を愛しているのではない。彼が彼らに約束するもののためにもまた彼を愛しているの ⑼ である」。 Ⅱ 子規が須磨を離れたのは一八九五年八月二十日のことだった。それから自分の故郷の松山に向かい、八月二十五日に到着している。そして二十七日から漱石とともに、彼らが「愚陀仏庵」と呼んだ離れ家にその秋五十日間にわたって一緒に住み始めたのは有名な話だ。子規はすでに須磨の巻を読んでいるわけだからこの二人の作家がそれについて話し合ったと見るのは想像に難くない。実際、司馬遼太郎が『坂の上の雲』にそんな場面を 描いてもいる。島内景二は著作『文豪の古典力』でこの場面について考察し、それから子規が東京へと戻った後の十月末に漱石が子規に送った次の俳句について論じている: 時鳥たつた一声須磨明石 ここの時鳥はもちろん子規の俳号を掛けている。同時にまたひとつ別の鳥への連想を誘う。須磨の巻にある、男たちに故郷を思わせる渡りの雁のことだ。時鳥はあの雁のように行ってしまった、まだ須磨と明石の巻について一声しか話していないうちに、とでも言っているかの ⑽ ような俳句。 子規と漱石とはもちろん極めて親しい友人だった。子規との会話の様子はその後何年も経ってから漱石の小説の中にしばしば登場してくる。漱石の『門』の第 章は一九一〇年、つまりこの友人二人が松山で共に暮らして十五年後に書かれており、私が最近考えるようになった 「漱石に取り憑いている子規」という命題のかすかな、 しかし強力な例をそこに見ることができる。この章はほ とんどが「敵という言葉の意味を正当に解し得ない楽天 家として、若い世をのびのびと渡った」という宗助の、 その呑気な大学時代の回顧で構成されている。その時の 彼の一番の親友が安井だった。宗助はのちに安井を敵と して恐れるようになるのだが、今しばしはこの友人二人 は京都とその近隣の探索を楽しみ、宗助は「安井の案内 で新らしい土地の印象を酒のごとく吸い込んだ」のであ る。ある日、二人は眼下に美しい保津川を望む嵐山の千 ⑾ 光寺に登る。この章の最初の方のページで漱石が描くホ モソシアルな親密さは、このさりげない一場面で一種の クライマックスに至る。二人は書が掛かった部屋で仰向 けに寝転がるのである。 「ある時は大悲閣へ登って、即非の額の下に仰向きながら、谷底の流を下る櫓の音を聞いた。その音が雁の鳴 14 声によく似ているのを二人とも面白がった。」 この一節に気づいたのは島内に依る。須磨の巻から私 が先に引いた一節が、この『門』の部分に「隠されている」 と指摘したのは島内だ。私はそこからさらに進め、ここ でむしろそれは水面に現れ、この一節の関連を知ってい る人たちへのこれ見よがしなメッセージになっていると 思うのである。雁が音と下の川から届く櫂の音とを比較 する源氏のことを思うことなしに、宗助と安井がどうし てそれを「面白が」ることが読者に理解できない。それ だけではない。この一節での宗助と安井は若き漱石と子 規に重ね合わされている。『源氏』全巻中、最もホモソ シアルな須磨の巻のこの瞬間を二人ともが知っていると ⑿ いうことの絆。 これに対する一つの反論は、宗助と安井が頭に浮かべ ているのは須磨の巻ではなく、紫式部も言及している雁 と櫂の比較のその大本たる唐詩、白居易(白楽天)の『河 亭晴望詩』なのだというものだろう。光源氏とその従者 たちが渡りの雁を見上げながらその鳴き声を櫂の軋み ⒀ と比べるのはこの詩を思ってのことだ。この読みは宗助と安井が櫂の音を聞いているのが詩人で書家でもある即非如一の額の下だという事実によっても補強される。彼は中国で生まれ江戸初期に日本に渡ってきた黄檗宗の仏僧だ。多分この書は彼らが白居易のことを思うきっかけとして用意されたものかもしれない。先に触れた漱石の『源氏物語』に対する否定的な態度もあり、彼があるいは『源氏物語』を、この細部をすぐに思い出すほどには十分に知っていなかったかもしれないという思いにも導 く。となれば、この場面での言及は、実際には『源氏』 をすっ飛ばしてそのまま中国の原典へと直結するものな のかもしれない。 しかし、それでも、元に戻って『門』のこの章は全体として見れば漱石が実際には須磨の巻を思い描いていたのだと見る「隠れた」関連性以上の証拠をさらに見つけ ることができる。その関連性は確かに驚くばかりだがそれだけではない:それによって『源氏』と『門』のそれぞれの作品について、そして漱石と子規の関係に対する私たちの理解はより深まることになるのだ。 『門』はとどのつまり、須磨の巻と同じく、間違った相手との恋によって起きた流刑の物語である。 章で読者がようやくわかるように、御米は元々は安井と一緒だったのを宗助が彼から盗み取った女性だ。結果として生じる醜聞で宗助は父親の遺産相続から外され、彼と御米は残りの人生を不面目の雲の中で暮らすことになるのだ。彼らの並外れた仲の良さはおそらく漱石の全作品中最も完璧な男女関係だが、それは彼らが互いにかけがいのない存在であるというよりも、広い世間から追放された二人だからというその結果である。 「社会の方で彼らを二人ぎりに切りつめて、その二人に冷かな背を向けた結果にほかならなかった。外に向って生長する余地を見出し得なかった二人は、内に向って深く延び始めたのである。彼らの生活は広さを失なうと同時に、深さを増して来た。彼らは六年の間世間に散漫な交渉を求めなかった代りに、同じ六年の歳月を挙げて、互の胸を掘り出した。」 もちろん、追放はまた源氏の運命でもある。数々の女 たちと別れての須磨での時は、特に紫の上との離別は最 も痛切で、物語中、光源氏がより複雑な内面を掘り下げ 始めるきっかけにもなる。その意味において、『門』 ⒁ 章と『源氏』須磨の巻は共振している。 Ⅲ 14 水川隆夫は漱石と京都に関して示唆に富む『漱石の京都』で、漱石の多くの作品に登場する「恋愛」というテー 14 マに、漱石が紫式部から受けた影響を見ることができると書く。「王朝物語が漱石の小説に与えた影響 ─おそ らく無意識の影響として、「恋愛」が多くの作品の重要なテーマとして選ばれる一因となった」と。おそらくそれは紛うことなき事実だろう。しかし同時に、 『源氏物語』の中の「恋」は明治の日本における「恋愛」とはかなり違った意味だったという話でもある。光源氏は言うまでもなく数多くの妻を持っていた。『源氏』の世界では女たちをめぐる男たちの競争はしばしば女たちには災難となるものの、宗助と安井が行う勝者総取り方式の色恋のそれとは違った。そして、平安も明治も「女性の交易」システムの下で、男性同士の付き合いこそが重要なものであり、女性たちはその関係性の媒介者にさせられる存 ⒂ 在であった。ただ、明治の場合と違って、『源氏』の世界では、その「ホモソシャル」の男たちの繋がりは簡単にエロティックな魅力へと変身し、欲望の波が男女を問わず、全てを覆うこともしばしばある。前述のあの場面を思い出せば明らかだろう。光源氏の従者たちが彼を仰ぎ見、自分たちの未来を思う場面だ。これは単に源氏の美しさが「慰み」としてや、故郷に残してきた女たちの代用として機能しているだけなのではない。この場合、故郷の女に対する記憶はその魅力を光源氏その人のものに転送するのである。 言うまでなく、源氏自身にとっては紫の上はこの「女性の交易」システムにおける大いなる例外である。彼女は代用も、このような欲望の転送も利かない「たぐひなかき」恋の対象だ。そしてそのことを彼が認識するのは彼女と離れ離れになるまさにその須磨の巻においてなのである。『源氏』の読み方の一つは、したがってこれを紫の上の立場から、つまりは紫式部の立場からの、一夫多妻 polygamyの世界における一対一 monogamyの求愛表現として解釈するものだ。 遠く時を隔てて、似たような欲求が立ち現れる時代に漱石は生きた。ところが男として、彼の体験はかなり異なる。明治初期まで続いた男同士のホモソシアルな文化に関しては、漱石は子規やその他の親しい仲間たちとの 友情で重々知っていたが、それは次第にいや増す近代の異性愛カップルの世界に追いやられて道を譲るのである。そして男同士のエロティックな愛が公然と語られることはますます難しくなった。『門』はこのジェンダー 14 やセクシュアリティにおける歴史的変遷を異郷への流竄、落魄の体験として実に寒々しい言葉で語る。かくして安井を含む数多くの友人たちに囲まれていた宗助は御米と二人っきりの生活へと隠遁するのである。『門』はそんな男女のカップルの内的遁避の物語であり、特に章は「自分達がいかな犠牲を払って、結婚をあえてしたかと云う当時を憶い出さない訳には行かなかった」話なのだ。この一節ならびに他にも数多くの提示があるが、 『門』ほど水村が漱石の作品一般について言ったことを如実に表している小説はない。水村は「漱石のように強烈に『男と女』の世界に抵抗した作家は日本の作家に他にいない」と言ったのである。 14 『門』の 章は『源氏』の須磨の巻のように秋から冬、そして春へと移り変わる。しかし『源氏』の時の移り変 ⒃⒄ わりは光源氏と彼のために犠牲を払っている従者たちと を隠遁生活からより偉大な栄光へと導くのに対し、宗助 と御米の方は彼らの内なる遁避から逃れることはない。 漱石は宗助と御米とが経験した近代特有の悲劇を強調す るために、須磨の巻との共振や対比とを我々に提示して いる。 これを明らかに表している場面は次の一節だ。宗助は 御米を見つめたある瞬間を思い出してその瞬間がどう彼 の未来を決定付けたかを考える。ここには先に論じた、 浦を渡る雁たちを見遣る源氏の場面と暗黙裡に通じ合う 多くの徴しが含まれている。 「宗助は二人で門の前に佇んでいる時、彼らの影が折れ曲って、半分ばかり土塀に映ったのを記憶していた。御米の影が蝙蝠傘で遮ぎられて、頭の代りに不規則な傘の形が壁に落ちたのを記憶していた。少し傾むきかけた 初秋の日が、じりじり二人を照り付けたのを記憶していた。御米は傘を差したまま、それほど涼しくもない柳の下に寄った。宗助は白い筋を縁に取った紫の傘の色と、まだ褪め切らない柳の葉の色を、一歩遠退いて眺め合わした事を記憶していた。今考えるとすべてが明らかであった。」 ここで宗助は自身の過去を振り返る。彼が御米を自らの視界に捉えた日、そして二人が船出するその先の未来をすでに感じ取った運命の日を。それは暗い未来だった。しかしその時ですらそれは水平線上に「明らか」に見えていた。宗助が御米のために安井を犠牲にするだろう未来。それはホモソシアルな過去をヘテロノーマティブ(異性愛規範的)な未来の下取りに出すことだった。ところが須磨の場面ではその真逆が現出している。従者たちは、光源氏や自分の仲間たちとともにある未来のために女たちを犠牲にしてやってきた。そこに光源氏の美しさが慰みとして付加されているのだ。宗助にとっては慰みはまずなかった。彼は過去を振り返り、自分の選択の代償について思いを馳せるだけだ。「自分達がいかな犠牲を払って、結婚をあえてしたかと云う当時を憶い出さない訳には行かなかった」と。 ともに季節は初秋である。しかし須磨の巻ではそれは「おもしろき夕暮」であるのに対して、『門』では「初秋 の日が、じりじり二人を照り付けた」不快に暑い日だ。 まるで二人がすでに社会的非難の苛烈な眼差しにさらさ れているかのように。もう一つ、二つの場面に配された 色の相似性も指摘しよう。光源氏が纏っているのは「白 き綾のなよよかなる、紫苑色などたてまつりて」である。 御米は「白い筋を縁に取った紫の傘」を持っている。 『門』のヘテロソシアル関係の未来に関する漱石のこの表向きのペシミズムにもかかわらず、彼の業績で最も特筆すべきことの一つはどんどん「男と女」の世界へと入っていく彼の能力、女性たちを真剣に捉える能力だ。おそ らく同世代の男性作家では漱石こそが女性に関して最も ⒅ 真面目に取り組んだ作家だ。水村美苗はそのことを論じ つつ、京都を舞台にした別の小説『虞美人草』の女性主 人公「藤尾」の死を実に強烈に脚色するなど、この世界 への漱石の初期の抵抗の強さをも指摘している。水村は、 男性と同等に扱われることを主張する女性である藤尾を「殺す」漱石の必要性はまた、女性によって書かれてきた文学の伝統に対する漱石の相反感情の象徴的な表徴であるとも読めると述べる。水村が指摘するように藤尾は繰り返し「紫の女」と呼ばれる。明らかな紫式部への論及 ⒆ だ。しかし、初期の『虞美人草』のような作品において「紫の女」を殺し、紫式部を黙殺したのに対して、のちの作品には、彼女の影響がまた明るみに出始め、ヘテロソシアリティの新たな可能性と、旧来の男同士のホモソシアリティへの哀愁が両方見受けられる。前述の、『源氏』と『門』のあれらの一節に現れる紫と白はつまり、白が「男と男」で、紫が「男と女」を意味する、その二つの世界 の解けない緊張を示唆したものではないだろうか? だが子規はどうなったのか? 丹治伊津子が言うように、の執筆準備に訪れた一九〇七年の京都で、 『虞美人草』 子規の記憶はいまだ漱石の中で生々しかった。その時に 書いた彼の随筆『京に着ける夕』を、丹治は「志半ばに 病に倒れた子規への〝餞〟であると共に、朝日新聞に入 社し、「職業作家」としての新たな未来への出発点を自 らに課した漱石の、たしかな決意の表明なのであった。」 ⒇ と読んでいる。 丹治の読みは正鵠を射ている。同時に子規への「餞」は実はそれで終わることなく、その後も漱石自身の死まで続いたのだと思われる。漱石は何度も何度も子規との語らいに経巡り戻っては自らの記憶の中の、子規の思い出に連なるホモソシアルな世界に立ち寄り続けながら、夭折した心友には「男と女」について見られなかったものを漱石は理解するに至るのだ。子規は紫式部を「藤式部」と呼び(冒頭に引用した彼の随筆のタイトルはそれ である)、彼女を自分の「恋人」とたとえる。彼女の作⑴品に対する彼の賞賛は過剰なほどだ。漱石がそれを知らないはずはない。ところが漱石にとって紫式部は「恋人」のような存在ではなかった。むしろかなりの相反感情を抱く対象としての小説家仲間だろう。彼は「紫の女」を⑵殺すことから新聞社お抱えの職業作家の道を始める。そしてそれは『明暗』の「お延」で未完結のままで、終わ⑶る。お延は、近代日本文学の女性登場人物で最も精緻に描かれた女性の一人である。そして、紫の上と同じように、プレイボーイの男と結婚し、彼が自分を愛してくれるのを待っている。ところが男は山中の温泉で心ここに在らずで夢ばかり追っているのである。⑷ * * *⑸ この6月に私は大学の同僚のサラ・フレデリックと共に丹治会長宅でのお茶会に招かれた。お宅は二条天皇陵⑹の真裏、渡辺崋山の画室があったというところから通りを下った場所にあった。小間の茶席で丹治さんは素晴らしいおもてなしをしてくださって、京都漱石の會会員の中には丹治さんの義理の娘さんもいらっしゃって、鮮や⑺かな着物姿で玄関先で私たちを迎えてくださった。またご自身のクリニックをお持ちの眼科医で文学について造⑻詣の深い女性の方や、朝日新聞大阪本社で文化を担当す⑼る女性記者の方も茶道のお弟子さんと聴いておどろいた。その午後すべてが美しく準備指揮され、お茶は美味⑽で、舞台は優美の極みだった。⑾ 京都という街にこのようにお茶をいただき、聡明な女 性たちと漱石と子規について語り合いながら、もし漱石 がこの集いにいたならば彼はいったい何を思うだろうか と考えている自分に気がついた。その思いがこの文章を⑿ 書くための調べ物につながっていったのだった。丹治さ んと「京都漱石の會」の皆さんに、感謝の意を込めてこ のエッセーを捧げたいと思う。⒀ (ボストン大学)  子規が須磨保養院に入院したのは七月二十三日から八月二十日までだった。「この頃ひまにまかせて源氏須磨の巻きなどくり返し申候、殊にあハれ深く覚えて興に入り申候、今年ほど初秋のゆかしき事は無之候、名所にすめるゆえにやと存候」『子規全集』講談社、第 巻 。  光源氏は義理の母である弘徽殿女御の妹「朧月夜」との関係が発覚して須磨に退去することになった。 佐伯政直宛ての書簡:「近日舞子明石邊へ遊ひかたわら試乗可候  汽船ならば暴風のなきかぎりは苦痛あるましくと信し居候。。。さは申ながら天気不順の勢も多少ハありしと見え二三日以来天候回復後ハ著しく元気を加へ申す候」『子規全集』第 巻 。  「余が文章に裨益せし書籍」明治三十九年・三・一五『文章世界』漱石全集 巻  「人は源氏物語や近松や西鶴を挙げて吾等の飾るに足りる天才の発揮と認めるかもしれないが、余には到底そんな自惚れは起こせない。」「東洋美術図譜」明治四十三年・一・五『東京朝日新聞』 島内景二著『文豪の古典力:漱石・鴎外は源氏を読んだか』文春新書二〇〇二年。下西善三郎「古典文学の受容における漱石・龍之介の位置」『上越教育大学研究紀要』第 巻第2号二〇〇四年三月、水川隆夫著『漱石の京都』  平凡 12 社二〇〇一年。  「藤式部」『日本』明治二十八年九月七日。『子規全集』第 18 巻。105 ─107。  宮坂静生『子規秀句稿』明治書院一九九六年、 。 581 25  Tyler, The Disaster of the Third Princess. Australian National University Press.二〇〇九年219。  この句の解釈を島内から借りた。『文豪の古典力』 頁参 照 18  ともに山に登る、これは二人で海に行くのと合わせて、男 601 同士の親密さのために漱石が設定した二つの原型モデルを構成している。瀬崎圭二「海辺のホモソシアリティ、あるいはその亀裂について〜〜夏目漱石「行人」について」『近代文 112 2 26 23 47 学試論』 ( )広島大学近代文学研究会二〇〇九年十二月参照。 195 234  共にした京都の旅の重要性を強調していることも注意に値する。丹治伊津子『夏目漱石の京都』 ─参照。  「風轉雲頭斂、煙銷水面開。晴虹橋影出、秋雁櫓聲來。郡靜官初罷、鄕遙信未回。明朝是重九、誰勸菊花杯。」集』巻五十四。 ⒁ 須磨における源氏の内面的成長の程度は絵合の巻で明らかだ。そこで彼は「左方」として須磨で描いた絵巻を見せ、 「右方」に勝利するのだ。「「須磨」の巻出で来たるに、中納言の御心、騒ぎにけり。あなたにも心して、果ての巻は心ことにすぐれたるを選り置きたまへるに、かかるいみじきものの上手の、心の限り思ひすまして静かに描きたまへるは、たとふべきかたなし。親王よりはじめたてまつりて、涙とどめたまはず。その世に、「心苦し悲し」と思ほししほどよりも、おはしけむありさま、御心に思ししことども、ただ今のやうに見え、所のさま、おぼつかなき浦々、磯の隠れなく描きあらはしたまへり(中略)よろづ皆おしゆづりて、左、勝つになりぬ。」 ⒂ 「女性の交易」については、Rubin, Gayle, 1975, “The Traffic in Women: Notes on the ‘Political Economy’ of Sex”, in RaynaReiter, ed., Toward an Anthropology of Women, New York, Monthly Review Press.(=二〇〇〇、長原豊訳、「女たちによる交通─性の『政治経済学』についてのノート」『現代思想』 (2): ─ )参照。 ⒃ 水村美苗『「男と女」と「男と女」:藤尾の死』『批評空間』一九九二年六月号。 ─ 。 ⒄ 「宗助は当時を憶い出すたびに、自然の進行がそこではたりと留まって、自分も御米もたちまち化石してしまったら、かえって苦はなかったろうと思った。事は冬の下から春が頭を擡げる時分に始まって、散り尽した桜の花が若葉に色を易える頃に終った。すべてが生死の戦いであった。」 ⒅ 「日本近代文学において漱石の作品のなかでのみ、女たち は精神のある人間として呼吸している。」水村同上、 。 ⒆ 「そもそも奇妙なのは漱石にとって意味をもっていた日本 文学の系譜が漢文学と俳句という男性的なジャンルにとど まり、日本文学のもう一方の系譜、つまりカナ文字文学と いう女性的なジャンルが全く無視されているという事であ る。。 。世界的観点からこれこそ日本文学だとされている平 安女流文学が完全に無視されているのは、まさに抑圧的だと しか言いようがない。『虞美人草』のなかで抑圧される藤尾 が紫の女であり、紫式部とゆかりの女であることを思えば、 なおさらである。」同上。 ⒇ 丹治伊津子「夏目漱石「京に着ける夕」論:寄席落語に始まった子規との交友」『京都語文』 号。二〇一三年。 。 28 118 159 176 177 20177 224 丹治伊津子は子規を漱石の「特別の心友」といい、二人の 『白氏文